白蓮会館

和歌山支部

白蓮会館とは

白蓮会館のカラテは単なる格闘技やスポーツではない。 道場とはいろんな人達が集まりそして汗を流し、技術の習得を通じ人間形成をなしていく場である。まずそのために修業の目的を確立することが大事である。

人はそれぞれに目的があって入門・入会してきます。ある人は年齢的な体力の低下を感じ、これの向上を計ろうとする者、精神修養や護身の技術を学びたい者、女子であれば護身の技術はさることながら美容と健康を維持したい者、子供を預ける親としては礼儀作法やいじめの問題を考え、また若者は強くなりたいというロマンをもち、そして世界的に確立されているフルコンタクトルールの中でチャンピオンを目指し、将来は道場を持ち後輩を育成していきたい者、そして世界に翔きたい者、というふうにその目的は十人十色である。

ゆえに指導者は練習生の体格や身体の状態に気を配りながら、ともに道場に来ることが楽しみになるような雰囲気を道場全体に育てなければならない。つまり修業の目的である、自らをよりどころとなるような「自己確立」や技術は自分一人では成し遂げることはできない。相手があって初めて習得できるのである。相手を敬い思いやる「自他共楽」の精神で行動力をもった人間に自らを変革していくことに修業の本質と意義がある。

空手で培うこと

実践空手 白蓮会館 和歌山支部 田辺道場で培うこと

1.基本を学ぶこと

白蓮会館カラテの特徴は、突きや蹴りを捌いて反撃する剛法、投げをうったり関節の逆を取ったりする柔法、それに身体を整える整法の三法からなるが、道を学ぶにはまず基本を反復し熟達することが必要である。先輩の素晴らしい蹴り技を真似てみたり、いきなり組手をしたりしてはいけない。英語でいうならA、B、Cから始めるように系列だてて順序よく稽古すれば自然に身体・手足が動くようになり、機に臨み変に応じることができるようになるのである。特に初心者は、道場で元気よく挨拶をすることや、履き物をきちんと揃えるといった練習をする前の心構えから入らなければならない。またケガをしないためにストレッチを重視し、素晴らしい高度な蹴り技や技術を身につけるためにも柔らかい身体をつくることから始めよう。
長年空手をしている中で、スランプに落ちいる時もある。そういう時は基本からしっかりやりなおせば克服できるものである。道場稽古で時間に遅れて来たり、基本をとばしてスパーリングだけ参加したりするのは、ほめられたものではない。

2.理を知ること

昔はフルコンの技術が発達していなくて、例えば富士山の項上をめざすのに、裏道を行ってしまったり、道に迷ったり、項上をめざすのにずい分無駄な稽古と時間を費したものだ。その当時はきつい稽古をすれば強くなるという発想であった。だが今は昔とちがう、先人たちの試行錯誤の努力の介あってフルコンの技術もビデオや雑誌等、又各地域で新人戦や交流試合が開催され、情報が非常に早く理論的で合理的な練習に変わっている。ともあれ、フルコンをはじめられたみなさんは、五合目までは簡単に行け、その後頂上をめざすのはみなさんの努力次第であろう。ともあれ無理や無駄、そしてケガをしないよう練習すべきである。

3.数をこなすこと

一人でコンビネーションを組み立て、リズムにのってシャドーを行うのも稽古の一つであるが道場で稽古している人々は体格の違いやパワーのある人、スピードのある人などそれぞれ特徴のある人が集まっている。特に逆技は相手によって手首の太い人、粘い人、力の強い人、いろんな人がいる。力三分、技術七分といわれるこの技術は 「コツ」を会得する以外に上達することのできないむつかしいものである。であるから、いろんな人と数多く相対稽古をすることが大切である。そして上達しようと思うならば、人の何倍かの努力と根気と忍耐が必要であり、凡人を非凡にする唯一の道である。

4.修行を片寄せぬこと

年齢的にも元気のある時期は、どうしても突き蹴り主体の剛法系に力を入れ、組手を重視して手首関節や肘関節の逆を取る柔法は痛いがゆえに稽古内容としてはあまり重視しない。逆に年配者は突いたり蹴ったりすることが体力的に無理がきかないので逆技主体の柔法系にこだわりがちである。
要するに望ましい稽古とは「剛柔一体」すなわち剛法と柔法をバランス良く稽古することである。組手についてもウエイトトレーニングを重視しすぎて道場稽古にあまり参加しかくなったり、またその逆もある。パワー増強や筋力トレーニングそしてけが防止や試合場での陰の力となってくれるのが、フルコンタクトカラテにおけるウエイトトレーニングである。我々はボディービルダーを目指すのではない。何kgを挙げるからスゴいとか、それが組手の強さにつながるとは思えない。カラテをする者ならば、カラテに役立つウエイトトレーニングを行うのが望ましい。

5.継続は力なり

何事において忍耐は必要である。カラテは高度な技術と奥深い内容を持つ道であるから休まぬようにして練習しないとなかなか会得できないものである。特に初心者は、多少のつらさはあっても階段を一歩一歩昇るように挫折しないようコツコツと練習するよう心がけることが大切である。
素質のある者が月に一、二回道場に釆て稽古したり、試合前にだけ練習をつめたりするのは、修業という意味からは掛け離れており、そのメッキはいつかは、はがれてしまうのである。
修業を続けていく中で人にはいろいろな障害や受験や就職、そして結婚等の転機があるがそれらを乗り越えて修業していれば必ずカラテをやっていてよかったと思う時があるはずである。

強さと武道

人は誰でも強くなりたいと考えている。

もっとも、-口に強さと言っても様々で、人によってその求める強さの性質も違っている。

ある人は健康で丈夫な身体を、ある人はどんな困難をも跳ね返し乗り越えられる精神の強さを、またある人は身にふりかかる火の粉を自分で払い退けられる護身の技を、それぞれ己の強さのバロメーターにしている。

最低何とか自分の身は守れるという自信が、真の勇気につながるのは確かだが、相手を制する技をいくら数多く知っていても、それだけでは逞しい人生を生きているということにはつながらない。

度胸がよい、腕がたつ、ということと強健な肉体を持つこととは必ずしも-致するわけではない。剛健な肉体や力の持ち主が精神面の弱さからノイローゼになったり、自らの命を絶ったりする例も少なくない。よく強健なる肉体に健全な精神が宿ると言われるが、そのためには日々不断の努力が必要なのである。

「護身練胆」 「健康増進」 「精神修業」を『三徳』とし、本当の強さを求めるのなら、“カラテ”の技を磨くことによって身体を鍛え、心を養う不撓不屈の精神、すなわち「押忍」の精神を造りあげることでなければならない。その意味から、白蓮会館“カラテ”は中途半端に己を甘やかさない、心身一体の厳しい修業を通じて己をよりどころとでき、『俺も強くなるからお前も強くなれ!』といった建設的な“カラテ”でなければならない。

いくら強くなりたいといっても、他人を敵視し社会との関わりを無視するようでは、暴慢で我の強い人間に育ちかねないのである。修業という意味では「-撃必殺」の技を鍛えるのも技術上の理想であるが、精神は「一拳多生」であるべきであり、自分の弱さを知り又それを克服してゆく「自己確立」の精神と我々は社会で生き、生かされているゆえ、誠実で明るく協調性と礼節を重んじなければならない。『武士道』で言えば常に刀の刃を磨いておかなければならないが、それをそっと鞘に収め、実際には抜くことのないよう努めなければならない。要するに「武徳」でもって人生観を豊富にし、小さないざこざや私闘を避けるように努めなければならない。まさしくその精神が“武道カラテ”の理想なのである。

白蓮会館の道場は互いに突き蹴りを出し、そしてそれを受け返し、また逆技を掛け合いながら、その中で素晴らしい人間関係を確立していく自他共楽の場である。